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	<title>遊ぶべ！道南探検隊 &#187; 歴史・伝説</title>
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	<description>函館、道南地方のイベント、日帰り温泉、マニアック観光、歴史伝説を紹介</description>
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		<title>丸山の不思議：函館市（旧戸井町）</title>
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		<pubDate>Sun, 13 Nov 2011 09:47:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ねりこ@ななめし</dc:creator>
				<category><![CDATA[函館市]]></category>
		<category><![CDATA[歴史・伝説]]></category>
		<category><![CDATA[伝説]]></category>
		<category><![CDATA[神社]]></category>

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		<description><![CDATA[<a href="http://donan.org/history-legend/maruyama.html"><img align="left" hspace="5" width="74" height="74" src="http://donan.org/wp-content/uploads/IMGP1845-100x100.jpg" class="alignleft tfe wp-post-image" alt="丸山入り口" title="丸山入り口" /></a>旧戸井町にある丸山の頂上付近に、昔から「丸山龍神宮」という小さな祠がある。山で働く林業者などには「山の神」として、ふもとの町・戸井の漁師には「大漁の神」として土地の人々に大切に信仰されてきた神様だ。この神様の例祭日に起こ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://donan.org/wp-content/uploads/IMGP1845.jpg" rel="lightbox[6533]" /><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/IMGP1845.jpg" alt="丸山入り口" title="丸山入り口" width="500" height="334" class="aligncenter size-full wp-image-6460" /></a></p>
<p>旧戸井町にある丸山の頂上付近に、昔から「丸山龍神宮」という小さな祠がある。山で働く林業者などには「山の神」として、ふもとの町・戸井の漁師には「大漁の神」として土地の人々に大切に信仰されてきた神様だ。この神様の例祭日に起こる不思議な出来事がある。</p>
<p>例祭日には、信仰している人々が祠まで参詣する。その際、木で作った木刀と小刀を腰に差し、鳥居の前に煙草を置いて祠まで登る。祠には持参した酒や魚、卵、お菓子、果物などをお供えするのだが、一部は祠から更に30mほど登った頂上にある「お穴」へ行き、ここへも同様の物をお供えしたのち、祠まで戻る。</p>
<p>祠の前の小さな広場で30分ほど待機し、何名かが「お穴」にお供えした物をを見に行くと、不思議なことにお供えした卵や魚などが無くなっているのだ。ある年には、一升瓶に五合ほど入れたお酒が、こぼれたあともなく綺麗に無くなっていたこともあったという。これは、丸山の龍神様が受け取るのだという。その供物の無くなり方によって、その年の漁などについて占う。</p>
<p>一連の礼拝が終わると、持参した木刀と小刀は、祠へ置いて下山する。</p>
<p>また、この「お穴」は<a title="武井の島（むいのしま）：函館市（旧戸井町）" href="http://donan.org/history-legend/muinosima-2.html" target="_blank">武井の島</a>にあるという鮫穴と通じているという伝説も残されている。</p>
<hr style="height: 1px; width: 80%;" size="1" width="80%" />
<p>龍神といわれるとおり、この神様は雌雄二匹の大蛇と言われている。</p>
<p>明治の頃、ある木こりが丸山のそばにある笹積山に小屋を建て、そこに寝泊りしていた。<br />
この木こりがある晩、ノコギリと斧を研いでいると小屋のそばの笹やぶが風も無いのにざわざわと鳴った。<br />
不思議に思って小屋の外に出ると、屋根の上にとてつもなく大きな蛇がいた。危険を感じたのか、木こりは夢中で蛇を切りつけ、とうとう殺してしまった。 気味が悪くなった木こりはすぐに山を下り、近くの村人にこの話をした。</p>
<p>翌日、村人が大蛇を見に行くと、物凄い数のカラスの大群が小屋に乗っており、件の大蛇はもはや骨だけの姿になっていたという。木こりはこの日から病を患い、丁度一週間目に死んでしまった。</p>
<p>この出来事以来、丸山龍神のお供物の受け方が変わったので、どちらかの大蛇が殺されてしまったのだろうと、村人は噂した。</p>
<h4>レポートと解説</h4>
<p>上の写真は、道道970号線沿いにある丸山さんへの入り口の鳥居です。土地の方々が大事にされている神様の元へ、私のような不信心者が行くべきではないと思い、山頂までは行っておりません。膝爆弾も爆発するでしょうしね・・・(´・ω・｀)</p>
<p><a href="http://donan.org/wp-content/uploads/IMGP1846.jpg" rel="lightbox[6533]" /><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/IMGP1846-300x200.jpg" alt="丸山龍神さんの但し書き" title="丸山龍神さんの但し書き" width="300" height="200" class="aligncenter size-medium wp-image-6461" /></a></p>
<p>さて、鳥居横の参拝者注意と書かれた看板には、「お山にお住みの霊神はタバコの類と刃物は大の禁物でありますので～云々」とあります。（クリックで拡大します。）さらに、植物も持ち帰り禁止とのこと。これを犯すと本人又は家族に必ず神罰があるとも書かれていますね。</p>
<p>この丸山龍神の祠ですが、中に納められている棟札には、</p>
<blockquote><p>大正元年八月二十二日<br />
丸山座須（まるやまにいます）<br />
大山津見神（おおやまつみのかみ）<br />
大綿津見神（おおわたつみのかみ）</p></blockquote>
<p>とありますが、これよりも昔からここには祠があったと言われています。<br />
また、「又末広」と掘られている円形の銅鏡もあり、鏡台には「大正九年五月小安村汐首納主○○（個人名のため伏字）」とあるそう。<br />
その後も、昭和二十年代に建て直され、三十年代に改築、四十年代に土台がコンクリートでできた立派な祠が造られたとのこと。<br />
以上の事柄は、昭和46年に発行された「北国の史話と伝説（上）」によります。その後から現代に至るまでの事情については詳しく知りませんが、ふもとの鳥居が比較的新しく綺麗なことを鑑みれば、資料にある通りに現在でも信仰の対象になっており、古来から脈々とこの山全体が土地の人々によって大切にされてきたことが、よくわかります。</p>
<hr style="height: 1px; width: 80%;" size="1" width="80%" />
<p>大蛇の話は他にも伝わっているものがあり、別の場所でも死んだ大蛇におびただしい数のカラスが集っていたのを見たというものや、丸山付近で山菜取りをしていた人がナラの大木にいた大蛇を見た、大きな鱗が見えて驚いて逃げ帰った、などという話もあります。</p>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=41.77505635173008,140.98716259002686&amp;ie=UTF8&amp;ll=41.77505635173008,140.98716259002686&amp;t=h&amp;z=11&amp;t=n&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="北海道函館市"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=41.77505635173008,140.98716259002686,red&amp;zoom=11&amp;size=480x350&amp;key=ABQIAAAA4u2T0yNl5BItm34hJc0ZvhSgFbaNgb9keBQ43v0nb2PE-rnTqRSPNLoe60UuQvvZt3Snx5JhXZ3lPw&amp;hl=ja" alt="北海道函館市" title="北海道函館市" /></a>
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		<item>
		<title>箱館戦争跡地・遺構いろいろ</title>
		<link>http://donan.org/kankou/mini_hakosen.html</link>
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		<pubDate>Fri, 08 Jan 2010 11:14:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ねりこ@ななめし</dc:creator>
				<category><![CDATA[函館市]]></category>
		<category><![CDATA[北斗市]]></category>
		<category><![CDATA[歴史・伝説]]></category>
		<category><![CDATA[観光スポット]]></category>
		<category><![CDATA[箱館戦争]]></category>

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		<description><![CDATA[<a href="http://donan.org/kankou/mini_hakosen.html"><img align="left" hspace="5" width="100" height="74" src="http://donan.org/wp-content/uploads/tousyougu1-100x100.jpg" class="alignleft wp-post-image tfe" alt="" title="東照宮の手水石" /></a>箱館戦争に関するいくつかの史跡をまとめました。 東照宮の手水石 東照宮は箱館戦争当時、現在の神山神社の場所にありました。 旧幕府軍の台場ともなっていたため激戦地となり、新政府軍による攻撃で東照宮は炎上、現在地に移転しまし [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>箱館戦争に関するいくつかの史跡をまとめました。</p>
<h4>東照宮の手水石</h4>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/tousyougu1.jpg" title="東照宮の手水石" width="300" height="225" class="alignleft size-full wp-image-4281" /> 東照宮は箱館戦争当時、現在の神山神社の場所にありました。<br />
旧幕府軍の台場ともなっていたため激戦地となり、新政府軍による攻撃で東照宮は炎上、現在地に移転しました。<br />
手水石には、当時の弾痕が残されています。</p>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/tousyougu2.jpg" title="手水石の弾痕" width="250" height="188" class="alignright size-full wp-image-4282" /><a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=41.838667,140.785306&amp;ie=UTF8&amp;ll=41.838667,140.785306&amp;t=h&amp;z=14&amp;t=n&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="北海道函館市陣川町８２−１５３"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=41.838667,140.785306,red&amp;zoom=14&amp;size=480x350&amp;key=ABQIAAAA4u2T0yNl5BItm34hJc0ZvhSgFbaNgb9keBQ43v0nb2PE-rnTqRSPNLoe60UuQvvZt3Snx5JhXZ3lPw&amp;hl=ja" alt="北海道函館市陣川町８２−１５３" title="北海道函館市陣川町８２−１５３" /></a></p>
<h4>四稜郭</h4>
<p>西洋式城跡。函館市陣川町。五稜郭の北方約3キロメートルの丘上傾斜地にあります。<br />
箱館戦争時、五稜郭の榎本軍は戦況が不利になったので、明治2年（1869）4月、北方防備と万一の退却地にとの考えから、ここと隣接の東照宮境内とに台場を急造しました。士卒200名に付近村民100名を徴用して数日で造ったといわれています。<br />
東西103.6メートル、南北65.5メートルの地に、高さ3メートルに幅5.4メートルの土塁をめぐらし、深さ0.9メートルに幅2.7メートルの外空濠があります。神山台場や新五稜郭と呼ばれましたが、四稜郭の呼称が定着したそう。<br />
4隅（稜）に砲座があり、築造間もなくの5月11日政府軍の猛攻撃にあい、榎本軍守兵は五稜郭へ敗走陥落。大鳥圭介の設計と伝えられています。昭和9年（1934）国の史跡に指定されました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=41.825583,140.770791&amp;ie=UTF8&amp;ll=41.825583,140.770791&amp;t=h&amp;z=12&amp;t=n&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="北海道函館市陣川町"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=41.825583,140.770791,red&amp;zoom=12&amp;size=480x350&amp;key=ABQIAAAA4u2T0yNl5BItm34hJc0ZvhSgFbaNgb9keBQ43v0nb2PE-rnTqRSPNLoe60UuQvvZt3Snx5JhXZ3lPw&amp;hl=ja" alt="北海道函館市陣川町" title="北海道函館市陣川町" /></a>
<p>&nbsp;</p>
<h4>極楽寺</h4>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/gokurakuji.jpg" title="極楽寺の諸国戦死供養塔" width="300" height="225" class="alignleft size-full wp-image-4283" /><br />
土方歳三を埋葬したのではないかという説もある、極楽寺。<br />
ここは、元々近くの刑場で処刑された人の霊を弔うため、近郊の有志が「念仏堂」を建てた場所。<br />
「横難横死萬霊塚」などもあり、思いがけない災難や非業の死を遂げた人のための碑であり、このことから、この場所には古くから庶民たちの墓所であったことが伺えます。<br />
そのような性格の寺なので、箱館戦争での戦死者を供養するため、諸国戦死供養塔も建てられました。</p>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=41.793786,140.729904&amp;ie=UTF8&amp;ll=41.793786,140.729904&amp;t=h&amp;z=15&amp;t=n&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="北海道函館市吉川町５−１８"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=41.793786,140.729904,red&amp;zoom=15&amp;size=480x350&amp;key=ABQIAAAA4u2T0yNl5BItm34hJc0ZvhSgFbaNgb9keBQ43v0nb2PE-rnTqRSPNLoe60UuQvvZt3Snx5JhXZ3lPw&amp;hl=ja" alt="北海道函館市吉川町５−１８" title="北海道函館市吉川町５−１８" /></a>
<h4>旧大野町の箱館戦争無縁墓</h4>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/mumeihaka1.jpg" title="箱館戦争の無縁墓" width="300" height="225" class="alignleft size-full wp-image-4284" /><br />
明治元年（1868）10月24日の早朝に、大野を戦場として戦死した福山藩の戦死者8名中、千賀猪三郎と松本喜多治の両藩士の墓がこの地に残っており、他の2名の藩士については未調査ですが、無縁仏としてここに葬られているといわれています。<br />
この無縁墓地は、大野唯一のもので、行路病者も葬られているということです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=41.872053471809245,140.64542770385742&amp;ie=UTF8&amp;ll=41.872053471809245,140.64542770385742&amp;t=h&amp;z=15&amp;t=n&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="北海道北斗市本町"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=41.872053471809245,140.64542770385742,red&amp;zoom=15&amp;size=480x350&amp;key=ABQIAAAA4u2T0yNl5BItm34hJc0ZvhSgFbaNgb9keBQ43v0nb2PE-rnTqRSPNLoe60UuQvvZt3Snx5JhXZ3lPw&amp;hl=ja" alt="北海道北斗市本町" title="北海道北斗市本町" /></a>
<p>&nbsp;</p>
<h4>箱館戦争無名戦士の墓</h4>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/mumeihaka2.jpg" title="箱館戦争の無名戦士の墓" width="300" height="225" class="alignleft size-full wp-image-4285" /><br />
向野（小川「こがわ」地区）、澤村家の水田の畦に、明治元年（1868）から翌2年にかけて繰り広げられた箱館戦争の犠牲者の墓があります。当時、市渡村の名主は沢村久之丞で、箱館戦争勃発と同時に榎本軍が陣を構えるなど、いや応なしに戦争の渦中に巻き込まれ、名主として大変苦労したといいます。<br />
澤村家は間口が10間（約18メートル）もあり、家の半分は土間だったため、明治元年の冬から翌2年の春にかけて、榎本軍が下二股口（台場山）などに陣地を構築した際は、作戦本部に充てられました。<br />
土間には銃が4,5丁ずつ組んで立てられ、澤村家は幹部の宿舎にもなったそう。<br />
この一帯は、澤村家の本家や分家が集まる篤農家ばかりで、水田の畦に直径80センチほどの自然石を置いて、「箱館戦争無名戦士の墓」としてまつっています。<br />
毎年8月13日には、一族そろって供養を続けていますが、この戦死者が新政府軍のものか榎本軍のものかははっきりしていません。</p>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=41.90248465873289,140.60933589935303&amp;ie=UTF8&amp;ll=41.90248465873289,140.60933589935303&amp;t=h&amp;z=15&amp;t=n&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="北海道北斗市向野３６７"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=41.90248465873289,140.60933589935303,red&amp;zoom=15&amp;size=480x350&amp;key=ABQIAAAA4u2T0yNl5BItm34hJc0ZvhSgFbaNgb9keBQ43v0nb2PE-rnTqRSPNLoe60UuQvvZt3Snx5JhXZ3lPw&amp;hl=ja" alt="北海道北斗市向野３６７" title="北海道北斗市向野３６７" /></a>
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	</item>
		<item>
		<title>函館・道南地方の歴史　－明治以降の道南地方－</title>
		<link>http://donan.org/history-legend/dounan_history3.html</link>
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		<pubDate>Fri, 01 Jan 2010 14:39:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ねりこ@ななめし</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史・伝説]]></category>
		<category><![CDATA[道南の歴史]]></category>

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		<description><![CDATA[<a href="http://donan.org/history-legend/dounan_history3.html"><img align="left" hspace="5" width="100" height="74" src="http://donan.org/wp-content/plugins/thumbnail-for-excerpts/tfe_no_thumb.png" class="alignleft wp-post-image tfe" alt="" title="" /></a>明治以降・道南地方年表 西　暦 年　号 できごと 1868 明治元 蝦夷地を統治するため箱館府が置かれる。 松前藩で正議隊のクーデターが起こる。 旧幕府軍が森町鷲ノ木に上陸し、五稜郭を占拠。 1869 明治2 新政府軍乙 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><br class="spacer_" /></p>
<div>
<h4>明治以降・道南地方年表</h4>
<table class="normal">
<tbody>
<tr>
<th>西　暦</th>
<th>年　号</th>
<th>できごと</th>
</tr>
<tr>
<td>1868</td>
<td>明治元</td>
<td>蝦夷地を統治するため箱館府が置かれる。<br />
松前藩で正議隊のクーデターが起こる。<br />
旧幕府軍が森町鷲ノ木に上陸し、五稜郭を占拠。</td>
</tr>
<tr>
<td>1869</td>
<td>明治2</td>
<td>新政府軍乙部町に上陸し、旧幕府軍降伏。<br />
蝦夷地を北海道、箱館を函館と改め、開拓使出張所を置く。</td>
</tr>
<tr>
<td>1871</td>
<td>明治4</td>
<td>函館大火があり、1123戸焼失。</td>
</tr>
<tr>
<td>1872</td>
<td>明治5</td>
<td>開拓使庁を札幌本庁と改め、函館支庁が置かれる。</td>
</tr>
<tr>
<td>1873</td>
<td>明治6</td>
<td>函館大火があり、1314戸焼失<br />
江差・福山の漁民が漁獲物課税に反対して暴動を起こすが、鎮圧。<br />
札幌－函館間を繋ぐ札幌本道が完成する。</td>
</tr>
<tr>
<td>1874</td>
<td>明治7</td>
<td>津軽海峡海底電信線敷設、東京函館間の定期航路も開かれる。</td>
</tr>
<tr>
<td>1879</td>
<td>明治12</td>
<td>函館大火で2326戸焼失。</td>
</tr>
<tr>
<td>1882</td>
<td>明治15</td>
<td>開拓使が廃止され、函館県となる。</td>
</tr>
<tr>
<td>1886</td>
<td>明治19</td>
<td>北海道庁を設置し、県を廃止する。</td>
</tr>
<tr>
<td>1889</td>
<td>明治22</td>
<td>函館上水道給水を開始。横浜市に続いて日本で2番目。</td>
</tr>
<tr>
<td>1899</td>
<td>明治32</td>
<td>函館大火で2494戸焼失。<br />
函館山要塞竣工。</td>
</tr>
<tr>
<td>1907</td>
<td>明治40</td>
<td>函館大火1万2390戸焼失</td>
</tr>
<tr>
<td>1908</td>
<td>明治41</td>
<td>青函連絡船が就航。</td>
</tr>
<tr>
<td>1913</td>
<td>大正2</td>
<td>函館大火で1532戸焼失。<br />
函館で路面電車開業。</td>
</tr>
<tr>
<td>1916</td>
<td>大正5</td>
<td>函館大火で1763戸焼失。<br />
母船式サケマス漁が始まる。</td>
</tr>
<tr>
<td>1921</td>
<td>大正10</td>
<td>函館大火で2141戸焼失。</td>
</tr>
<tr>
<td>1926</td>
<td>昭和1</td>
<td>函館東京間の長距離電話が開通。</td>
</tr>
<tr>
<td>1929</td>
<td>昭和4</td>
<td>駒ケ岳が噴火し、降灰火砕流の流出などがあった。死者2名。</td>
</tr>
<tr>
<td>1934</td>
<td>昭和9</td>
<td>函館大火で2万4186戸焼失。<br />
死者2054名、重軽傷者1万2592名、行方不明者662名。</td>
</tr>
<tr>
<td>1937</td>
<td>昭和12</td>
<td>日中戦争始まる。</td>
</tr>
<tr>
<td>1941</td>
<td>昭和16</td>
<td>太平洋戦争始まる。</td>
</tr>
<tr>
<td>1945</td>
<td>昭和20</td>
<td>7月函館大空襲。青函連絡船が爆撃で壊滅。<br />
合計24ヶ所に爆弾321発、ロケット弾13発が投下され、死亡者79名、負傷者28名という甚大な被害が出た。</td>
</tr>
<tr>
<td>1949</td>
<td>昭和24</td>
<td>松前城が役場からの飛び火によって焼失。</td>
</tr>
<tr>
<td>1954</td>
<td>昭和29</td>
<td>台風15号により青函連絡船洞爺丸をはじめ5隻が沈没。<br />
死者行方不明者合わせて1430名という大惨事。</td>
</tr>
<tr>
<td>1957</td>
<td>昭和32</td>
<td>木古内大火で203戸焼失。</td>
</tr>
<tr>
<td>1961</td>
<td>昭和36</td>
<td>森町大火で590戸焼失。</td>
</tr>
<tr>
<td>1963</td>
<td>昭和38</td>
<td>青函トンネル工事着工。</td>
</tr>
<tr>
<td>1968</td>
<td>昭和43</td>
<td>函館市志海苔町で古銭が大量に発見される。</td>
</tr>
<tr>
<td>1971</td>
<td>昭和46</td>
<td>東亜国内航空ばんだい号が横津岳斜面に墜落。死者68名。</td>
</tr>
<tr>
<td>1973</td>
<td>昭和48</td>
<td>亀田市が函館市へ合併。</td>
</tr>
<tr>
<td>1976</td>
<td>昭和51</td>
<td>旧ソ連ミグ25戦闘機1機が函館空港に強行着陸。<br />
パイロット1名がアメリカへ亡命。</td>
</tr>
<tr>
<td>1985</td>
<td>昭和60</td>
<td>青函トンネル開通。</td>
</tr>
<tr>
<td>1988</td>
<td>昭和63</td>
<td>青函連絡船廃止。</td>
</tr>
<tr>
<td>1993</td>
<td>平成5</td>
<td>北海道南西沖地震。震源付近の奥尻を中心に津波や火災が発生。<br />
死者201名、行方不明者29名の大惨事。マグニチュード7.8。</td>
</tr>
<tr>
<td>1995</td>
<td>平成7</td>
<td>函館空港にて全日空857便ハイジャック事件。</td>
</tr>
<tr>
<td>2004</td>
<td>平成16</td>
<td>函館市と戸井町、恵山町、椴法華村、南茅部町が合併し、新「函館市」となる。</td>
</tr>
<tr>
<td>2007</td>
<td>平成19</td>
<td>函館市南茅部から出土した中空土偶が、道内初の国宝に指定される。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p style="text-align: center;"><a href="dounan_history2.html">&lt;&lt;　箱館戦争</a></p>
</div>
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		<title>函館・道南地方の歴史　－箱館戦争－</title>
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		<pubDate>Fri, 01 Jan 2010 14:22:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ねりこ@ななめし</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史・伝説]]></category>
		<category><![CDATA[道南の歴史]]></category>

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		<description><![CDATA[<a href="http://donan.org/history-legend/dounan_history2.html"><img align="left" hspace="5" width="100" height="74" src="http://donan.org/wp-content/uploads/goryoukaku-100x100.jpg" class="alignleft wp-post-image tfe" alt="" title="五稜郭" /></a>箱館戦争　－1868～1869年（慶応4年/明治元年～明治2年）－ 1867年（慶応3）年に大政奉還、王政復古の大号令 が行われて新政府が立ち上がると、旧幕府側を掃討したい新政府側とそれに抵抗する旧幕府側で争いとなり、戊 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><br class="spacer_" /></p>
<h4>箱館戦争　－1868～1869年（慶応4年/明治元年～明治2年）－</h4>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/goryoukaku-300x233.jpg" title="五稜郭" width="300" height="233" class="alignleft size-medium wp-image-509" />1867年（慶応3）年に<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A5%89%E9%82%84">大政奉還</a>、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29">王政復古の大号令</a> が行われて新政府が立ち上がると、旧幕府側を掃討したい新政府側とそれに抵抗する旧幕府側で争いとなり、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89">戊辰戦争</a>が起こりました。 1868（慶応4）年ついに江戸城無血開城となりましたが、それでも徹底抗戦を続ける者が江戸を離れ、北へ北へと戦線が伸びていきました。<br />
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%8F%9A">榎本武揚</a>ら一部の旧幕府軍は、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、仙台にて戊辰戦争に参加していた<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E6%AD%B3%E4%B8%89">土方歳三</a>や<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%A5%E5%9C%AD%E4%BB%8B">大鳥圭介</a>などの旧幕府軍を収容、森町鷲の木の浜に入りました。箱館の五稜郭を占拠し、蝦夷地は旧幕臣のための開拓地であるとしました。森町から箱館への進軍途中では、北斗市（旧大野町）、七飯町峠下・大中山、旧南茅部の川汲で戦闘がありました。</p>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/matumaejou2-300x210.jpg" title="春の松前城" width="300" height="210" class="alignright size-medium wp-image-1300" /></p>
<p>その頃松前藩では少し前に勤王過激派正議隊によるクーデターが起き、佐幕派だった家臣が殺害・あるいは自害させられ、勤王派が藩政をとっていました。<br />
旧幕府軍は、松前藩に対して降伏を薦める使者を2度派遣しましたが、2度とも殺害されてしまいます。やむをえず松前攻略が決定されて土方軍が松前へ攻め入り、松前藩では旧式の装備で応戦しましたが、新式の装備と艦砲射撃には勝てず、旧幕府軍が勝利しました。</p>
<p>この時、藩兵が町の各所に火を放ちながら藩主のいる厚沢部町館城に逃亡し、この戦火で町の3分の2が焼失したといわれています。また、旧幕府軍は逃げ遅れたりなどして捕虜となった松前藩士と一人一人面談、土地へ送り返したり藩主のもとへ行きたい者は行かせたり、おのおのの望むようにしたといいます。城の中に残された婦女子も、館城にいた藩主のもとへ送り届けたそうです。</p>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/kaiyoumaru-300x218.jpg" title="開陽丸" width="300" height="218" class="alignleft size-medium wp-image-100" /></p>
<p>この松前一帯の戦闘で、旧幕府軍は当時最強といわれた軍艦<a href="http://www.h6.dion.ne.jp/~kaiyou/">「開陽丸」</a>を江差に停泊させていましたが、暴風により座礁してしまいます。そこで、軍艦回天丸と運搬船神速丸が開陽丸の救助に向かいましたが、乗組員は全員脱出したものの開陽丸と神速丸が沈没してしまいました。開陽丸が沈没していく様子を見ていた榎本と土方が松の木を叩いて嘆き悲しんだ、という話が伝わっており、その松の木が今でも江差に残されています。開陽丸を失ったことは軍事上かなり大きな損失で、のちの新政府軍の蝦夷地上陸を簡単に許してしまう原因ともなりました。</p>
<p>さらに厚沢部の館城で戦闘となり、松前藩が敗れて藩主徳広（のりひろ）は青森へ敗走しましたが、元来病弱だったためか敗走先で喀血して倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。<br />
この時、館城には家系図、御朱印などの貴重な品々が残っていたそうですが、それらは一度五稜郭へ送られた後、箱館の民間人に託されて松前家に送り届けられました。この頃季節は真冬になっていて、戦闘は一時中断、雪解けまで津軽海峡を挟んでのにらみ合いが続きました。</p>
<p>また、総裁である榎本武揚は朝廷に嘆願書を提出しています。<br />
榎本には、新政府によって徳川家の領地が大幅に削減された旧幕臣たちを救済するために、彼らを蝦夷地に移住させて広大な土地の開拓に従事させ、同時に北方の防備もつとめさせようという狙いがありました。新政府にとっても必ずしも悪い話ではないと主張したのですが、当然この願いは聞き入れられるどころか全く無視されています。</p>
<p>ここへきて軍資金も減少し、箱館の住民に重税をかけるなどしていたので、当時の住民からは反感を買っていました。<br />
さらには、豪商から軍資金を接収しようという案も出されましたが、土方歳三が猛反対してさすがに取りやめになるなど、かなり苦しい状況でした。新政府軍の新造艦を奪取しようと<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E6%B9%BE%E6%B5%B7%E6%88%A6">宮古湾海戦</a>が起こりましたが、失敗に終わり、軍艦高雄を失うなどさらに厳しい状況となりました。また、榎本武揚はプロシアのR・ガルトネルとの間に、「七重村開墾条約」を結びました。この条約は七重村とその付近の千ヘクタールもの広大な土地を99年間借り受け、その代償として農民に西洋の農業を教える、というものでした。<br />
戦争終了後にこの土地を取り戻すために非常に苦労し、1870（明治3）年ガルトネルに対して多額の賠償金を支払うことで解決をみました。</p>
<p>1869（明治2）年4月9日、ついに新政府軍約2000名がが乙部に上陸しました。旧幕府軍の200余名が抵抗しましたが、先鋒の松前藩士によって撃退されました。<br />
この松前藩士は松前城攻略の際に捕虜となり、旧幕府軍が松前藩主の元へ送った者たちだったそうです。</p>
<p>その後、新政府軍は江差から木古内、松前、大野の二股口の3方向に分かれて進軍し、松前城奪還、木古内では大鳥圭介隊を撃破するなど、箱館へ肉薄してきました。<br />
唯一、<a href="http://www10.plala.or.jp/morineri/kankou/hokuto/futamataguti.html">二股口</a>では旧幕府軍が土方歳三の采配で連勝を続けていましたが、木古内が突破され挟み撃ちにされる危険があったため、やむなく二股口から五稜郭へ撤退しました。</p>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/Bentendaiba-300x115.jpg" title="弁天台場" width="300" height="115" class="size-medium wp-image-1308 alignnone" /></p>
<p>5月11日、新政府軍は箱館総攻撃をかけました。<br />
新政府軍は五稜郭北方にある<a href="http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/board_of_edu/lifelong_learning/museum/">四稜郭</a>を陥落。箱館湾では海戦が行われ、旧幕府軍の軍艦蟠竜が新政府軍軍艦朝陽を撃沈すると、一時旧幕府軍が勢いを盛り返しましたが、函館山の裏側の海岸（寒川）から密かに上陸していた新政府軍に奇襲されて、付近にいた<a href="http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/board_of_edu/lifelong_learning/museum/">新選組</a>をはじめとする旧幕府軍は<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%A0%B4">弁天台場</a>（現在の函館どっく）まで撤退しました。</p>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/hijikata.jpg" title="土方歳三最期の地碑" width="250" height="167" class="alignleft size-full wp-image-560" /></p>
<p>弁天台場を救出しようと少数の兵を率いて向かった土方歳三が、一本木関門近く（現在の若松町付近）で戦死し、箱館市中は新政府軍の手に落ちて、旧幕府軍海軍も壊滅しました。<br />
15日には孤立していた弁天台場が降伏を表明。 16日には徹底抗戦を貫いた千代ヶ岡陣屋（現在の千代台・中島町）で<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%8A%A9">中島三郎助</a>親子が戦死するなど全滅しました。（写真は土方歳三最後の地碑）</p>
<p>この時、新政府軍の総指揮を執っていた<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86">黒田清隆</a>は再三榎本に降伏を勧めていました。しかし、榎本はかたくなに拒否し、最後まで戦い抜く、ただし他の者に相応の土地を与えてくれるなら潔く裁きを受けよう、と返答していましたが、返答と共に、彼がオランダ留学時代に全文書写した「万国海律全書」を、戦火に巻き込まれるのは忍びないと黒田宛に渡しました。<br />
この本は当時の国際法について書かれた大事な物で、日本が今後開国して他国と交流していくにあたり非常な助けとなりうる書物でした。<br />
これに感激した黒田は、返礼として酒5樽を五稜郭に届けました。また、同時に総攻撃開始の旨も通知しました。このため五稜郭内は動揺し、榎本は、戦争の責任を一身に負い切腹を図りますが、彰義隊頭取大塚霍之丞らに制止されています。</p>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/hekketuhi-199x300.jpg" title="碧血碑" width="199" height="300" class="alignright size-medium wp-image-1309" /></p>
<p>18日、ついに五稜郭も降伏しました。ここに箱館戦争が終結したのです。<br />
戦後、死罪も免れないといわれていた榎本ですが、黒田の「有為な人材を失うことは国家の損失」という理念に基づく必死な助命嘆願活動や、フランス軍将校が旧幕府軍に参加していたこともあり、諸外国との関係が深い榎本を罰するのは政治的に難しく、また官軍捕虜を人道的に扱っていたことで、東京や奥羽方面からも助命嘆願がありました。そして1872（明治5）年赦され出獄、新政府に仕えました。<br />
のちに、榎本と黒田は開拓使に任ぜられ、二人揃って入閣したり、互いの子同士が結婚するなど、親しい間柄となったようです。（写真は碧血碑。1875(明治8)年に建立された箱館戦争戦死者を弔う旧幕府軍側の墓。）</p>
<div style="margin-left: 1em; background-color: #dfe9ea; padding-bottom: 5px; padding-top: 5px; padding-left: 15px; padding-right: 15px;">
<h5><a name="hekketu"></a>碧血碑</h5>
<p>箱館戦争で敗れた旧幕府軍戦死者の遺体は、新政府軍の目が厳しく野ざらしとなっていました。そこで、侠客柳川熊吉と建築業者大岡助右衛門が遺体を集め、実行寺境内に埋葬しました。<br />
それを知った新政府軍が怒り処刑しようとしましたが、熊吉は、鼻や耳をそいだりせず早く首を切れ、と覚悟の程を示すと、薩摩藩士で軍監田島敬蔵がその意気に感じ入り、放免しました。 1871（明治4）年函館山山腹に土地を買い、実行寺付属地として約800名の遺骨を改葬し、後に政府の許しを得て榎本武揚や大鳥圭介らの協力で碑を刻み、1875（明治8）年5月碑を建てて祀りました。<br />
「碧血」とは、中国の「義に殉じた武人の血は三年で碧色になる」との故事にちなんだものです。<br />
これとは別に、<a href="../kankou/assabu/inakuraisi.html">厚沢部町稲倉石に松前藩士死者を弔った碧血碑</a>もあります。</p>
</div>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/syousinsanmoku.jpg" title="傷心惨目の碑" width="300" height="225" class="alignleft size-full wp-image-1310" /></p>
<p>この戦いで箱館の町は甚大な被害を受け、800戸余りが焼失したと伝えられています。この火事の被害は弁天台場の旧幕府軍が放火したといわれ、「脱走火事」などと名づけられています。<br />
高竜寺は戦争時に箱館病院の分院となり旧幕府軍の兵士が入院していましたが、 5月11日の新政府軍総攻撃で政府軍の松前藩・津軽藩士などが高竜寺を襲い、発砲されたことに腹を立てて職員や入院者十数名を惨殺し、さらに放火するという事件もありました。この時の入院兵の多くは会津藩士だったため、1880（明治13）年に会津ゆかりの方々によって、高竜寺境内に「傷心惨目の碑」が建てられました。<br />
また、この戦争で旧幕府側の医師として箱館病院頭取となって尽力した<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%87%8C%E9%9B%B2">高松凌雲</a>は、敵味方区別なく傷病者を治療し、日本での赤十字運動の先駆者とされています。新政府軍の負傷者が運ばれてきた際、直ちに収容し、入院していた旧幕府軍の兵士に混乱や反発が起きましたが、どんな者でも負傷者にはかわりがないと説き、毅然とした態度で治療に当たったといいます。新政府軍が病院に迫った時にも、体を張って赤十字精神を説きこれを退けました。この病院で治療を受けた患者は、1340名にのぼるといいます。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="dounan_history1.html">&lt;&lt;　江戸時代の道南・松前藩</a>｜<a href="dounan_history3.html">明治以降の道南地方　&gt;&gt;</a></p>
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		<title>函館・道南地方の歴史　－江戸時代の道南・松前藩－</title>
		<link>http://donan.org/history-legend/dounan_history1.html</link>
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		<pubDate>Fri, 01 Jan 2010 13:13:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ねりこ@ななめし</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史・伝説]]></category>
		<category><![CDATA[道南の歴史]]></category>

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		<description><![CDATA[<a href="http://donan.org/history-legend/dounan_history1.html"><img align="left" hspace="5" width="100" height="74" src="http://donan.org/wp-content/uploads/yamakosi_yonaki2-100x100.jpg" class="alignleft wp-post-image tfe" alt="" title="山越内関所ノ碑" /></a>江戸時代の道南（17～19世紀） 松前藩では米がとれなかったので、アイヌとの独占交易権利を持ってもっぱら交易で収益を得ていました。 そのため、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h4>江戸時代の道南（17～19世紀）</h4>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/yamakosi_yonaki2-300x225.jpg" title="山越内関所ノ碑" width="300" height="225" class="alignleft size-medium wp-image-1283" />松前藩では米がとれなかったので、アイヌとの独占交易権利を持ってもっぱら交易で収益を得ていました。<br />
そのため、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限し、藩に利益が回るような政策をとりました。<br />
また、松前藩領の港に入港した船や荷、人々から関税を徴収して利益としていました。<br />
（写真は山越内関所跡）</p>
<p>さらに、米がとれないということで、当時の大名の格付け基準となる<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98">石高</a>も割り出すことができなかったので、幕府は、松前藩が将軍の上洛の時に一万石相当の負担をしたという実績を基に、特例で一万石並の大名という扱いにしました。<br />
またその他の特例として、大名は一年江戸に在府し一年は領国へ帰国する<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E5%8B%A4%E4%BA%A4%E4%BB%A3">参勤交代</a>が、松前藩は遠国であるということもあり5年に1度や3年に1度という特典もありました。</p>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/sasanamike-300x218.jpg" title="旧笹浪家住宅" width="300" height="218" class="alignright size-medium wp-image-289" /></p>
<p>18世紀前半頃から藩の家臣はこれまで藩が独占してきた交易の権利を商人にまかせ、そのかわりに商人から運上金という税金の一種をもらうようになりました。<br />
場所ごとに商業活動をするようになり、場所を請け負った商人は出稼ぎの和人や現地のアイヌを働かせました。これにより商業主義が一段と高まり、鰊、鮭、昆布などの海産物の生産が増加、漁場も拡大していきました。<br />
（写真は上ノ国町旧笹浪家。18世紀から続いたニシン場の網元。建築年代は19世紀前半。）</p>
<p>18世紀中頃からロシア人が蝦夷地に現れるようになると、防衛上の理由から幕府は1799（寛政11）年に松前藩から蝦夷地の大半を取り上げ、直轄地としました。<br />
幕府は、函館に箱館奉行、松前に松前奉行を置き、東北六藩から出兵させて蝦夷地を警備させました。しかし、慣れない極寒の地での警備で寒さのために凍死したり、栄養不足から脚気や水腫などで死亡する藩士も多数いたようです。<br />
この際、領主松前家は大名から9000石の小名(旗本)に格下げとなり、陸奥国梁川(福島県伊達郡梁川町)に移住させられました。</p>
<p>1811（文化8）年<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6">ゴローニン事件</a>が起こるなどしましたが、この事件が収束した後北方が再び静かになったことなどから幕府が政策を変換し、1821（文政4）年に松前藩は蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰しました。幕府直轄時代は、北方危機への不安、不審火の続発、疫病、疱瘡(天然痘)の流行、ニシンの凶漁が続いていましたが、この年からまたニシンが獲れ出し「殿様下(さが)ればニシンが下る」と住民が喜び合ったといわれています。</p>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/matumaejou2-300x210.jpg" title="春の松前城" width="300" height="210" class="alignleft size-medium wp-image-1300" />再び藩が復帰した際には、幕府からの命令で、松前城下に六か所、箱館六か所、江差二か所のほか、白神岬・吉岡村・矢不来(やぎない)・汐首岬にも砲台を設け、各地に勤番所を設置するなど警備を充実させました。その警備を充実させる一環で、幕命により1854（安政元）年10月に松前福山城が完成しました。これは旧式築城では最後に建築されたものとして有名で一時は国宝に指定されましたが、1949（昭和24）年に焼失してしまいました。現在の天守は鉄筋コンクリート造で再建されたものです。</p>
<p>1854（嘉永7）年に<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84">日米和親条約</a>が締結し、松前藩下の箱館が補給港として開港されました。それに伴い、箱館を含む渡島半島東部は再び幕府に召し上げられ、代わりに陸奥国梁川等が与えられました。また、同年箱館にペリー艦隊が来航し、箱館湾や内浦湾の測量を行いました。箱館は、1859（安政5）年日米修好通商条約により、日本初の国際貿易港として開港し、外国人居留地も設置されました。こうして箱館にはアメリカをはじめイギリス、ロシア、等から領事が派遣され、外国人の往来が激しくなり、急激に西洋文化が拡大し人口も増えていったのです。当時の中心地であった現在の元町付近では、今でも異国情緒あふれる町並みを見ることができます。<br />
開港に伴って防衛力強化などのため、1866（慶応2）年に幕府は箱館に洋式の城郭である<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%A8%9C%E9%83%AD">五稜郭</a>を完成させました。</p>
<h4>この時代の主な出来事</h4>
<div>
<h5>キリシタン処刑　－1639（寛永16）年－</h5>
</div>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/kinzanbansyo1.jpg" title="金山番所" width="242" height="173" class="alignleft size-full wp-image-1301" /></p>
<p>全国的にキリシタンの布教活動が行われていましたが、1613年（慶長18年）に徳川幕府がキリシタンの禁教令を出しました。これを受けて、全国のキリシタンが徳川幕府の迫害をさけて東北、蝦夷地へと移動し、特に松前の千軒金山に流れていました。<br />
しかし、1637（寛永14）年に<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1">島原の乱</a>が起きると、幕府はキリシタンの徹底的な弾圧を始め、幕府からの圧力が強まったために松前藩でもキリシタンを駆逐せざるをえなくなり、砂金掘りのキリシタン合計106名を処刑しました。<br />
（写真は金山（かなやま）番所といい、税を徴収する御番所があったといわれる場所です。この十字架は1960年に殉教の史実を伝えるためカトリック信者によって建立されました。<a href="http://sakag.web.infoseek.co.jp/">一人歩きの北海道山紀行</a>様よりお借りしました。）</p>
<h5>駒ケ岳大噴火　－1640（寛永17）年－</h5>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/komagatake11.jpg" title="駒ケ岳" width="250" height="186" class="alignleft size-full wp-image-1302" /></p>
<p>駒ケ岳は今から3万年以上前から噴火を繰り返している活火山です。<br />
この年の大噴火で、山の一部が崩れて山麓の低地を埋めて現在の大沼、小沼ができました。大沼・小沼に点在する島々も噴火によって山が崩れて堆積したもので、こういった地形を流れ山と呼びます。また、東側に崩れた山の一部は噴火湾に達し、大津波を起こして約700名が犠牲になったと伝えられています。<br />
駒ケ岳は現在も活発に活動を続けており、登山禁止となっています。</p>
<h5>シャクシャインの戦い　－1669年（寛文9年）－</h5>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/mimiduka-300x225.jpg" title="耳塚" width="300" height="225" class="alignleft size-medium wp-image-1261" /></p>
<p>和人の不正交易に対するアイヌの不満が高まり、また松前藩のアイヌ分断政策により部族間の対立も激化した末、シブチャリ（現静内町）のアイヌの長シャクシャインが寛文8年（1668）についに蜂起しました。シャクシャインは松前に軍勢を向け、寛文9年（1669）東西蝦夷地の和人約300人を殺害、略奪をしました。幕府は松前出身の家臣、松前泰広を派遣しこれを征討、シャクシャインは10月23日和議の酒宴中に謀殺されました。シャクシャインは大手門前の四辻で磔になり、竹ののこぎりで切り割られたとも伝わっています。松前城内には、このとき処刑されたアイヌの首謀者14人の首を持ち帰るかわりに耳をそぎ落とし、埋めたといわれる<a href="http://www10.plala.or.jp/morineri/densetu/mimiduka.html">耳塚</a>が残されています。<br />
また、和人でアイヌにくみした者も処刑されました。<br />
この乱は、寛文蝦夷乱と称され、島原の乱以来の大乱とされています。</p>
<h5>渡島大島大噴火　－1741（寛保元）年－</h5>
<p>1741（寛保元）年に渡島半島西方沖にある渡島大島が大噴火しました。<br />
江差・松前・津軽方面の広い範囲で降灰があり、昼でも暗く灯りが必要なほどだったといいます。この噴火で大津波（寛保津波）も発生し、対岸の熊石から松前にかけて約1500名ほどの犠牲者（2000名、3000名との説も）が出ました。<br />
遠くは朝鮮半島でも犠牲者が出たという話も伝わるほどの大惨事でした。</p>
<h5><a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B1%8B%E5%98%89%E5%85%B5%E8%A1%9B">高田屋嘉兵衛</a>　（1769～1827）</h5>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/takadayakahei.jpg" title="高田屋嘉兵衛像" width="80" height="120" class="alignleft size-full wp-image-1303" /></p>
<p>淡路島出身で、箱館で活躍した豪商で北方の開拓や北洋漁業の礎となった人物。幕命によって択捉航路を開いて、択捉島にて漁場を経営し、現地に居住していたアイヌに漁業法を教えて雇いました。<br />
1806（文化3）年の箱館の大半を焼失したという大火では、私財を投じて被害者を救済し、防火のための井戸を掘り竜吐水を寄付、道路を改修するなどしました。<br />
また、箱館周辺の未開地を開拓・植林、凶年のために備蓄米の蔵を建設、シジミ・ハマグリの養殖、港を埋め立てて造船場建設するなど、箱館への功績は計り知れません。<br />
晩年は故郷の淡路島へ戻り、59歳で亡くなりました。</p>
<h5>ゴローニン事件　－1811（文化8）年－</h5>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/Golovnin.jpg" title="ゴローニン" width="198" height="228" class="alignright size-full wp-image-1304" /></p>
<p>当時のロシア人は樺太や択捉、利尻などに出没して略奪暴行をしていたことで、日露関係は緊張していました。<br />
そんな中、北太平洋の水路調査や沿岸測量を行っていたロシア軍艦ディアナ号が国後島に到達、艦長ゴローニンとその部下が上陸し、駐留していた南部藩の守備隊に捕らえられて箱館に送られ、さらに松前に連行されて牢に幽閉されました。<br />
すると、今度はディアナ号副艦長のリコルドが翌年高田屋嘉兵衛の船を襲って嘉兵衛をカムチャッカに連行するという事件がおきました。しかし、嘉兵衛は落ち着いた態度でロシア側の信用を得たので、リコルド副艦長は1813（文化10）年嘉兵衛を国後へ帰し、嘉兵衛の働きで松前奉行はゴローニンを釈放しました。<br />
また、ゴローニンは幽閉中に日本人にロシア語を教え、翻訳を助けるなどしました。</p>
<p>2006年、「ゴローニン」事件に関係した高田屋嘉兵衛、ゴローニン、リコルドの3人の名前がカムチャツカ半島の無名峰に付けられました。<br />
嘉兵衛が抑留されたペトロブロフスクウカムチャツキーに近い、カムチャツカ半島南部のナリチェボ自然公園内にある二つの山に付けられたもので、ゴローニン山（1333m）、リコルド山（1205m）、ゴローニン山の一部の突起がカヘイ岩壁（1054m）となりました。<br />
これは、ゴローニンの7代目の子孫ピョートル・ゴローニンさんが、ゴローニンとリコルドの生誕230年に当たる2006年に「ゴローニン事件を後世に伝え、友好の証を刻みたい」とロシア地理学会を通してカムチャツカ政府に要請し、これを受けて政府が命名したそうです。<br />
同じく嘉兵衛7代目の高田嘉七さんは「ロシアの人たちが歴史を忘れないで大事にしようというのはいいこと」と喜んでいるとのことです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="dounan_history.html">&lt;&lt;　先史時代から松前藩成立まで</a>｜<a href="dounan_history2.html">箱館戦争へ　&gt;&gt;</a></p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>函館･道南地方の歴史　－先史時代から松前藩成立まで－</title>
		<link>http://donan.org/history-legend/dounan_history.html</link>
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		<pubDate>Fri, 01 Jan 2010 11:58:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ねりこ@ななめし</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史・伝説]]></category>
		<category><![CDATA[道南の歴史]]></category>

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		<description><![CDATA[<a href="http://donan.org/history-legend/dounan_history.html"><img align="left" hspace="5" width="100" height="74" src="http://donan.org/wp-content/uploads/pirika-100x100.jpg" class="alignleft wp-post-image tfe" alt="" title="ピリカ旧石器博物館" /></a>旧石器時代（～約1万3千年前頃） 北海道に人が住み始めたのは今から2万年以上前と考えられ、道内のあちこちからその頃の人が使った石器などが見つかっています。 道南では、知内町湯の里4遺跡で国内最古の旧石器時代（1万4千年前 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h4>旧石器時代（～約1万3千年前頃）</h4>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/pirika.jpg" title="ピリカ旧石器博物館" width="299" height="279" class="alignleft size-full wp-image-1295" /></p>
<p>北海道に人が住み始めたのは今から2万年以上前と考えられ、道内のあちこちからその頃の人が使った石器などが見つかっています。<br />
道南では、<a href="http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/10192.html">知内町湯の里4遺跡</a>で国内最古の旧石器時代（1万4千年前）の墓跡が発見され、平成3年に国の重要文化財となりました。また、<a href="http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/10471.html">今金町美利河１遺跡</a>も今から1～2万年前の遺跡です。発掘調査により出土した大量の石器のうち、163点の石器が平成3（1991）年に重要文化財に指定されました。<br />
当時の気候はとても寒く、海水面は現在よりも100mほど低くて、北海道と大陸とは陸続きでした。マンモスやナウマン象やおおつのじか、野牛などを追う狩人たちが行き来していたようです。この頃を旧石器時代と呼んでいます。<br />
（画像は今金町ピリカ旧石器文化館）</p>
<h4>縄文時代（約1万年前～2000年前）</h4>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/oohuneiseki.jpg" title="大船遺跡" width="250" height="187" class="alignleft size-full wp-image-495" /></p>
<p>この時代は主に狩猟と採集の生活で、道南地方と津軽海峡を挟んだ東北北部とは共通の文化圏が広がり、2つの地域で密接に交流していたようです。<br />
道南の主な遺跡としては、函館市（旧南茅部町）<a href="http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/minamikayabe/i_main.html">大船遺跡</a>が有名です。ここは縄文前期末～中期末（約5000～4000年前）の1000年間にわたって築かれた大集落跡で、平成8年度に調査された約3500平方メートルから92軒の竪穴住居と盛土遺構等が発掘されました。平成13年には国指定史跡となり、同地区の著保内野遺跡より1975年に発掘された<a href="http://www.geocities.jp/kitanojoumonclub/">中空土偶</a>は平成18年に国宝となりました。</p>
<p>他にも北海道縦貫自動車道建設に係る発掘調査にて発見された、<a href="http://www.town.hokkaido-mori.lg.jp/moriweb/04kyoiku/03bunka/bunka03-01.html" class="broken_link">森町の鷲ノ木5遺跡出土の環状列石（ストーンサークル）</a>などを筆頭に、道南各地に遺跡が点在しています。（詳しくは<a href="http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/sbs/joumon/remains/index.htm" class="broken_link">北海道庁・北の縄文ページ</a>をご覧下さい）<br />
（写真は大船遺跡）</p>
<h4>続縄文時代（紀元前3～紀元後7世紀頃）</h4>
<p>弥生時代には稲や鉄の作り方の技術は知識のみ取り入れましたが、道南では気候の関係で稲をうまく作ることができませんでした。そのため、縄文時代から引き続き狩猟、漁猟、採集の生活が続きました。ただ、アワ・キビ・ヒエ・ソバの存在から、これらの穀物を栽培していた可能性が高いそうです。本州ではこの頃弥生時代ですが、北海道ではそれとは異なる文化に分かれたので、続縄文時代と呼ばれています。<br />
この時代の道南の遺跡には<a href="http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/10674.html">恵山貝塚</a>などがあります。</p>
<h4>擦文時代（8世紀末頃～13世紀）</h4>
<p>7・8世紀以降は本州の古代社会や大陸との交流も持たれ、農耕も取り入れた北海道独自の文化がつくられました。当時の土器には刷毛でこすったような模様がついていることから擦文時代と呼ばれ、本州での古墳・奈良・平安・鎌倉時代前期までの時代に当たります。本州と同様の土師器と須恵器を使用していたこともわかっています。この時代の人の墓からは鉄製の鎌や鍬、斧と共にアワやソバが出土していることから、ある程度農耕をしていたと考えられています。しかし、メインは相変わらず狩猟や漁猟であったようです。また、石器から鉄器へ移行していきました。この時代の道南にある遺跡は、上磯町矢不来3遺跡、函館市湯川遺跡、汐泊遺跡、八雲町トコタン2遺跡、<a href="http://www.ehako.com/news/newsbk1/964_index_msg.shtml">上ノ国町ワシリ遺跡</a>などです。</p>
<h4>アイヌ文化時代（13世紀頃成立）</h4>
<p>13世紀になると、擦文文化を代表する土器は姿を消し、アイヌ文化が成立したと考えられています。住居は竪穴住居から平地に建設された<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C#.E6.96.87.E5.8C.96.E3.81.A8.E7.94.9F.E6.B4.BB">チセ</a>に変化し、<a href="http://yajin.jugem.jp/?eid=79">アペオイ（炉）</a>を中心とした儀式やイオマンテ（熊の霊送り）の儀式なども整えられたようです。アイヌの人々が自らの歴史や文学（ユーカラ）などを口承していて、その口承からは自然と共に生きる姿を読み取ることができます。<br />
（参考：その他、アイヌの文化や生活については<a href="http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nyumon.html">「アイヌ文化入門」</a>様が詳しいです。）</p>
<h4>和人渡来～松前藩成立（15～16世紀）</h4>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/katuyama1-300x218.jpg" title="勝山館跡" width="300" height="218" class="alignleft size-medium wp-image-273" /></p>
<p>津軽地方（青森県西部）にいた、鎌倉幕府北条氏より蝦夷管領（または蝦夷代官）に任ぜられた豪族、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E7%9B%9B%E5%AD%A3">安藤盛季</a>（後に安東・あんどうもりすえ）が、南部地方（青森県東部から岩手県北部）の南部氏と勢力を争っていましたが、安藤氏は戦いに敗れて蝦夷（現在の北海道）へ逃れました。1443（嘉吉3）年のことです。<br />
1454年（享徳3年）には前述の安藤氏の一族<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%94%BF%E5%AD%A3">安東政季</a>が再び南部氏に追われ、河野政通、相原政胤、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BA%83">武田信広</a>などを従えて渡道し、道南各地に「館」と呼ばれる山城を築き、主なものは<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%8D%97%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%A4%A8">道南十二館</a>と呼ばれ、蝦夷地を実質支配し始めました。</p>
<p>1457（長禄元）年、志濃里（志海苔・しのり）の和人鍛冶屋と客であるアイヌ少年の間に起きた争いをきっかけに、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84">コシャマインの乱</a>が起こりました。道南十二館のうち十館が落とされるほどの勢いでしたが、最終的に1458年に武田信広が乱を鎮圧しました。<br />
この軍功で力をつけた武田信広が蝦夷地に渡って来た和人をまとめ、その子蠣崎光広（上ノ国花沢館館主蠣崎氏の家督を継いだ）が、松前の大館へ移り、1514（永正11年）年安東氏に認められ、安東氏の代官として蝦夷地を治めることとなりました。<br />
その後、蠣崎氏は1593（文禄2）年に当時の大館館主<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A0%A3%E5%B4%8E%E6%85%B6%E5%BB%A3">蠣崎慶広（かきざきよしひろ）</a>が、当時天下を平定していた豊臣秀吉から全蝦夷地（樺太・北海道）の支配権を与えられました。 1599（慶長4）には姓を松前に改め、1719（享保4）年には大名に昇格し正式に1万石格の松前藩藩主となりました。<br />
（写真は勝山館跡）</p>
<div>
<h5>道南十二館</h5>
<p>道南地方に造られた館のうち、「新羅之記録」（現存する最古の松前藩の歴史書）にある有名な館の総称です。<br />
これらの館は中世末期に主にアイヌの攻撃により廃絶していますが、蠣崎氏（後の松前氏）の陰謀によるという説もあります。</p>
<table class="normal">
<tbody>
<tr>
<th>館　名</th>
<th>館　主</th>
<th>所在地</th>
<th>備　考</th>
</tr>
<tr>
<td>志濃里館</td>
<td>小林良景</td>
<td>函館市志海苔町</td>
<td>14世紀後半または15世紀初頭に完成し、1512年アイヌとの戦いで廃絶</td>
</tr>
<tr>
<td>箱館（宇須岸館）</td>
<td>河野政通</td>
<td>1512年アイヌとの戦いで廃絶</td>
<td>箱館の地名が生まれる元となったといわれる館</td>
</tr>
<tr>
<td>茂別館</td>
<td>下国家政</td>
<td>北斗市（旧上磯町）矢不来</td>
<td>コシャマインの乱で落ちなかった館。家政の孫の師季の代1562（永禄5）年アイヌに攻められて廃絶。</td>
</tr>
<tr>
<td>中野館</td>
<td>佐藤季則</td>
<td>木古内町中野</td>
<td>遺跡がはっきりと見つかっておらず、詳細な場所は不明。</td>
</tr>
<tr>
<td>脇本館</td>
<td>南条季継</td>
<td>知内町涌元</td>
<td>遺跡がはっきりと見つかっておらず、詳細な場所は不明。</td>
</tr>
<tr>
<td>穏内館</td>
<td>蒋土季直</td>
<td>福島町吉岡</td>
<td>館跡は現在国道228号線になっています。</td>
</tr>
<tr>
<td>覃部館</td>
<td>今泉季友</td>
<td>松前町東山</td>
<td>及部川西側七面山付近にあったらしいが、遺跡は未確認。</td>
</tr>
<tr>
<td>大館</td>
<td>下国定季、相原政胤<br />
のちに蠣崎光広、義広など蠣崎氏の居館</td>
<td>松前町神明、福山</td>
<td>1512年アイヌの攻撃により当時の守将相原季胤・村上政儀が敗北。 翌年蠣崎光広がすぐに入城。1606年福山館に蠣崎氏が移動するまで道南の中心館。</td>
</tr>
<tr>
<td>禰保田館</td>
<td>近藤季常</td>
<td>松前町館浜</td>
<td>昔は近藤の馬場跡、近藤神社などもあったという。</td>
</tr>
<tr>
<td>原口館</td>
<td>岡辺季澄</td>
<td>松前町原口</td>
<td>館跡には古代の遺跡もあり、判然としない。</td>
</tr>
<tr>
<td>比石館</td>
<td>厚谷重政</td>
<td>上ノ国町館野</td>
<td>1469年廃絶されたらしい。縄文時代後期の遺跡もあり、アイヌのチャシを館に利用したとされる。</td>
</tr>
<tr>
<td>花沢館</td>
<td>蠣崎季繁</td>
<td>上ノ国町勝山</td>
<td>武田信広は季繁の養女の婿となり、のちにここより西の地に勝山館を造った。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
</div>
<p><a href="dounan_history1.html">江戸時代の道南・松前藩へ　&gt;&gt;</a></p>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>義経伝説</title>
		<link>http://donan.org/history-legend/yositune.html</link>
		<comments>http://donan.org/history-legend/yositune.html#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 01 Jan 2010 07:24:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ねりこ@ななめし</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>
		<category><![CDATA[歴史・伝説]]></category>
		<category><![CDATA[伝説]]></category>
		<category><![CDATA[義経伝説]]></category>

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		<description><![CDATA[<a href="http://donan.org/history-legend/yositune.html"><img align="left" hspace="5" width="100" height="74" src="http://donan.org/wp-content/plugins/thumbnail-for-excerpts/tfe_no_thumb.png" class="alignleft wp-post-image tfe" alt="" title="" /></a>イタンキ 南茅部町安浦は、もともと「板木（いたぎ）」といった。この「板木」はイタンキからきた地名で、菅江真澄の「蝦夷迺手布利（えぞのてぶり）」によると、昔、義経が水を飲んだ椀が波に流されてここへ辿り着いたので、「イタンキ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div>
<h5>イタンキ</h5>
<p>南茅部町安浦は、もともと「板木（いたぎ）」といった。この「板木」はイタンキからきた地名で、菅江真澄の「蝦夷迺手布利（えぞのてぶり）」によると、昔、義経が水を飲んだ椀が波に流されてここへ辿り着いたので、「イタンキ」となったという。同様の地名は室蘭にもある。</p>
<hr size="1" />
<h5>欣求院の仏像</h5>
<p>今は松前町光善寺に合併された欣求院（ごんぐいん：松前）には、義経が津軽海峡を渡った際に海上の安全を弥陀如来に祈り、無事に渡ることが出来たので御礼として、仏像千体を作り、祭ったという。</p>
<hr size="1" />
<h5>船魂神社</h5>
<p>義経が津軽海峡を渡っていると、海が大荒れとなりいよいよ船が沈むかと思われた時、船魂明神の奇跡によって、北海道に上陸した。<br />
水を探していると、童子が忽然と岩の上に現れ、指差す方を見ると水が滾々と湧き出ていた。後に、この水は船魂明神の宣託水と呼ばれた。<br />
また、函館八幡宮の石の鳥居の下に、弁慶の足跡のついた石を埋めてあるとも言う。</p>
</div>
<h4>レポートと解説</h4>
<div>
<h5>欣求院の仏像について</h5>
<p>実は江戸初期に欣求という僧がそれまでにあった無縁寺を再興して欣求院としたものだそうです。欣求は万治2年（1659）に弥陀像を中心に多数の仏像をまつって、千体仏供養をしましたが、それが後年義経の仏像と噂されました。<br />
海上の安全を祈願した仏像だとのことで、当時の船乗りたちが方々へ持ち去ってしまい、のちに豪商伊達家が仏像を補いましたが、明治元年の大火で焼けてしまったとのこと。大きな弥陀像は日高の平取町の義経神社に運ばれ、弁慶作としてまつられたのだそうですが、廃仏毀釈で放出されて今は函館の称名寺にあります。</p>
<h5>船魂神社</h5>
<p>他にも平安時代に僧良忍が来たという伝説もありますが、ここは中世からあった観音堂で、後に波分不動や船魂神（船の守護）の信仰が加わったといいます。</p>
</div>
]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>津軽海峡</title>
		<link>http://donan.org/history-legend/tugarukaikyou.html</link>
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		<pubDate>Fri, 01 Jan 2010 07:21:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ねりこ@ななめし</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>
		<category><![CDATA[歴史・伝説]]></category>
		<category><![CDATA[伝説]]></category>
		<category><![CDATA[義経伝説]]></category>

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		<description><![CDATA[<a href="http://donan.org/history-legend/tugarukaikyou.html"><img align="left" hspace="5" width="100" height="74" src="http://donan.org/wp-content/plugins/thumbnail-for-excerpts/tfe_no_thumb.png" class="alignleft wp-post-image tfe" alt="" title="" /></a>昔、竜飛岬の黒神と男鹿半島の赤神が十和田の女神を取り合いして、黒神は戦いに勝ったのだが、女神は負けた赤神に同情してとうとう一緒になってしまった。 絶望した黒神は、ものすごいため息をついた。すると、そのため息によって津軽か [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昔、竜飛岬の黒神と男鹿半島の赤神が十和田の女神を取り合いして、黒神は戦いに勝ったのだが、女神は負けた赤神に同情してとうとう一緒になってしまった。<br />
絶望した黒神は、ものすごいため息をついた。すると、そのため息によって津軽から北海道が離れてしまったのだという。</p>
<p>また、波が荒いのは源義経がこの海を渡ったときに、義経をめぐって二人の女性が争い、大蛇となって暴れたからだという。</p>
<h4>レポートと解説</h4>
<p>津軽海峡は、3つの潮の流れがあり、複雑に絡み合っています。<br />
しかし、そのおかげで暖流に乗ってくる魚も、寒流に乗ってくる魚も獲ることのできる、よい漁場となっています。</p>
]]></content:encoded>
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	</item>
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		<title>巨鳥</title>
		<link>http://donan.org/history-legend/kyotyou.html</link>
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		<pubDate>Fri, 01 Jan 2010 07:19:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ねりこ@ななめし</dc:creator>
				<category><![CDATA[その他]]></category>
		<category><![CDATA[歴史・伝説]]></category>
		<category><![CDATA[アイヌの伝説]]></category>
		<category><![CDATA[伝説]]></category>
		<category><![CDATA[八雲町]]></category>
		<category><![CDATA[長万部町]]></category>

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		<description><![CDATA[<a href="http://donan.org/history-legend/kyotyou.html"><img align="left" hspace="5" width="100" height="74" src="http://donan.org/wp-content/plugins/thumbnail-for-excerpts/tfe_no_thumb.png" class="alignleft wp-post-image tfe" alt="" title="" /></a>遊楽部岳 北檜山町と熊石町の境に位置する遊楽部岳は、その昔、日高の山奥にいた巨鳥が外国に旅立つときに休む場所だったという。 この巨鳥は片方の翼だけで7里（約27.3キロ）あると言われる。そういう伝説から、この山がウー（泊 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div>
<h5>遊楽部岳</h5>
<p>北檜山町と熊石町の境に位置する遊楽部岳は、その昔、日高の山奥にいた巨鳥が外国に旅立つときに休む場所だったという。</p>
<p>
この巨鳥は片方の翼だけで7里（約27.3キロ）あると言われる。そういう伝説から、この山がウー（泊まる）ラップ（翼）と呼ばれるようになったとの説もある。</p>
<hr size="1" />
<h5>長万部の国縫川</h5>
<p>国縫川はアイヌ語でクンネナイ（黒い川）といい、昔、この川の水源の洞窟に巨鳥がいて、ある時洞窟から飛び出して暴れだし、その翼は空を覆って川が暗くよどんだので、この名がついたという。</p>
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<h4>レポートと解説</h4>
<p>上記のユーラップの地名の解釈は、後代につけられたもののようで、ユーとは「湯」の意で「温泉の下る川」という説が有力です。<br />
遊楽部岳は見市岳とも呼ばれる、標高1276mの山です。<br />
国縫川では砂鉄がとれるので、それからも「黒い川」という名がついたのでしょう。<span id="_marker"> </span></p>
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		<title>山越の夜泣き石：八雲町</title>
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		<pubDate>Fri, 01 Jan 2010 07:17:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ねりこ@ななめし</dc:creator>
				<category><![CDATA[八雲町]]></category>
		<category><![CDATA[歴史・伝説]]></category>
		<category><![CDATA[伝説]]></category>
		<category><![CDATA[石にまつわる伝説]]></category>

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		<description><![CDATA[<a href="http://donan.org/history-legend/yonakiisi_yamakosi.html"><img align="left" hspace="5" width="100" height="74" src="http://donan.org/wp-content/uploads/yamakosi_yonaki1-100x100.jpg" class="alignleft wp-post-image tfe" alt="" title="山越の夜泣き石" /></a>関所が設置されていた時代に、罪人を切るために腰をかけさせたと言い伝えられている石。 真夜中、関所の裏の方からしくしくと人のしのび泣く声が聞こえてくるので、関所の番人が不思議に思って行ってみると、暗闇の中に人がうずくまって [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/yamakosi_yonaki1-300x225.jpg" title="山越の夜泣き石" width="300" height="225" class="alignleft size-medium wp-image-1282" /></p>
<p>関所が設置されていた時代に、罪人を切るために腰をかけさせたと言い伝えられている石。</p>
<p>
真夜中、関所の裏の方からしくしくと人のしのび泣く声が聞こえてくるので、関所の番人が不思議に思って行ってみると、暗闇の中に人がうずくまっているように見えた。<br />
番人がそっと近づいてみると、それは罪人が切られるときに腰をかける石で、しくしくというその泣き声は石の下から聞こえてきていた。番人は驚いて会所に逃げ帰った。<br />
山越内関所は文久元年（1861年）に廃止されたが、夜泣き石だけは処分されずに残された。石は血の跡で黒ずんでおり、血染めの石ともいわれ、戦後ようやく今の形に保存されるようになった。</p>
<h4>レポートと解説</h4>
<p><img src="http://donan.org/wp-content/uploads/yamakosi_yonaki2-300x225.jpg" title="山越内関所ノ碑" width="300" height="225" class="alignleft size-medium wp-image-1283" /></p>
<p>山越内関所跡地に建つ碑。この大きな碑の右手前に夜泣き石があります。</p>
<p>当時、この山越は和人とアイヌの地の境で、東蝦夷地への人の出入りを監視する場所でした。人家も今よりもきっと少なく、寂しいところだったでしょう。非業の死を遂げた方たちのことを思うと、200年以上前のこととはいえ悲しい気持ちが湧いてきます。</p>
<p>首切り役人として有名な山田浅右衛門（1813～1884）ですら刑を執行した夜は、芸者をあげてドンちゃん騒ぎでもして、酔いつぶれなければ恐ろしくて眠ることができなかったといいます。本当にこの石が泣いていたのかどうかはわかりませんが、首を切る役人にとってこの石は決して心穏やかな存在ではなかったことでしょう。その気持ちから、このような伝説が生まれるのだと思います。</p>
<p>ちなみに、この石の向かって右横に井戸跡もありましたが、私にはこちらの方が何となく恐かったんですが・・・、気のせいでしょうか（気のせい、気のせい）。刑場に首洗い井戸はつきものなのですが、この井戸がそうだったのかどうかはわかりません。</p>
<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=42.23048753247362,140.32819747924805&amp;ie=UTF8&amp;ll=42.23048753247362,140.32819747924805&amp;t=h&amp;z=13&amp;t=n&amp;maptype=G_NORMAL_MAP" title="北海道二海郡八雲町山越"><img src="http://maps.google.com/staticmap?markers=42.23048753247362,140.32819747924805,red&amp;zoom=13&amp;size=480x350&amp;key=ABQIAAAA4u2T0yNl5BItm34hJc0ZvhSgFbaNgb9keBQ43v0nb2PE-rnTqRSPNLoe60UuQvvZt3Snx5JhXZ3lPw&amp;hl=ja" alt="北海道二海郡八雲町山越" title="北海道二海郡八雲町山越" /></a>
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